第1章 創業期 1916→1931 大正5年~昭和6年
株式会社ダイワ・エム・ティ100年の軌跡
第1節|大和(やまと)製作所、創業
静岡市清水区には、遠く万葉の時代から今に至るまで、日本の名勝として多くの人の心を魅了する「三保の松原」がある。7kmにもおよぶ松林が縁取る海岸線と、駿河湾を隔てて望む雄大な富士山の美しい眺めは、歌川広重の浮世絵に描かれ、今では世界遺産「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」の一端を担う。 豊かな自然の恵みと温暖な気候は、この地にさまざまな産業を育んだ。明治より国際貿易港として国内外の交易の要であった清水港を擁し、その地の利から長年海運業の中継地として発展してきた清水では、船舶に関わる産業も盛んであった。
1916(大正5)年、29歳の和久田八十松(わくたやそまつ)は船舶産業の好景気を受けて、清水市入江町松原通に船舶機械専門の木型製作所を立ち上げる。株式会社ダイワ・エム・ティの前身となる「大和(やまと)製作所」の創業である。
第2節|軍需景気と大和製作所
当時の日本は、1914(大正3)年に開戦した第一次世界大戦による軍需景気に、国中が沸きたっていた時代であった。清水の産業も活況を呈しており、創業まもない大和製作所も、船舶関連のエンジンやモーターなどを製造するための木型を、次々と受注。八十松を加えても5人に満たない人員で、創業早々、連日嬉しい悲鳴を上げていた。最初はすべてを手作業で仕上げていた木型製作も、昭和に向けて機械が導入されるようになり、より精巧な木型を数多く作れるようになっていく。
創業時より八十松を支え、後に工場長となる鈴木巌(すずきいわお)は、もともと大工の棟梁であった。共に職人気質である八十松と鈴木の実直で精密な仕事ぶりから、各方面より多くの引き合いがあり、その名は県外にまで知らしめるほどであったようだ。
今も、ダイワ・エム・ティには、1930(昭和5)年に内務省からの依頼で献上した、横浜港湾設備「ケーソン(※)」の模型記録が残されている。造船関連の職人の中でも、八十松が腕の立つ良い仕事をしていたことから、依頼されたものと推察される。
清水時代の大和製作所は、製造業における一企業としての基礎を築き、軍需を背景に町と共に成長していった。
※ケーソンとは、水中構造物として特に土台などに使用される箱状のもの。港湾工事や海洋工事では、波浪や潮流の条件が厳しい場合や、海底の支持層が比較的浅い場合によく用いられる。具体的には、ケーソンを沈めて海底に設置し、防波堤や橋梁の基礎とする。