第4章 拡張期 1970→1988 昭和45年~昭和63年

第1節|大淵新工場の船出

 1970(昭和45)年2月、大淵2470(富士市)に大和木型製作所の新工場が完成した。この地は、不動産に関して才覚のあった芳江が以前から取得を促し、購入していた土地であった。当時は、高度成長期の自動車産業躍進の勢いに乗り、自動車関連の仕事量が爆発的に増えていた。いすゞ自動車とはこの頃、それまで商社を通していた業務を、直接口座を開いて取引できるようになっていた。また、日産車体との数年前からの取引により、1971(昭和46)年からは、その登場が大いに話題となった日産自動車の代表的なスポーツカー、『日産・フェアレディ240Z』の開発・生産に関わることとなる。
 「この頃はとにかく忙しかった」と、当時いた社員の誰もが口をそろえる。引きも切らない注文に、連日夜中の2時3時まで仕事をするのが普通の光景だった。工場の裏手には、芳江の姉家族を住まわせ、社員のための食事や風呂などの面倒がみられるよう、態勢を敷いた。真夜中に寿司をとり、みんなで食べては「もう一仕事頑張ろう!」と気合を入れた。そして、仕事が一段落するとみんなで慰安旅行に出向いた。社員も家族もみなが一丸となり、大いに働き大いに労いながら、自動車産業の一端を担っていた活気あふれる時代であった。

 

第2節|河西工業株式会社との出逢い

 業務が拡大していくこの時代の営業面を支えていた一人が、後に副工場長となる中島弥吉である。商人の家に生まれた中島は、中学を卒業してすぐに大和木型製作所に入社。若いころから器用で、熱心に技術を習得したことからめきめきと腕を上げていた。当時は、納品時には客先に商品を持参して出向き、その場で最終的な修正、調整を施したうえでの検収が主であった。したがって、職人自ら一人敵陣に乗り込み、衆人環視の中、承認が得られるまで削る、盛るなどの修正作業を行う必要があったため、必然的に技術者が営業的な役割も担っていたのである。仕事ぶりが次の仕事につながる世界であり、技術者は社内のみならず、社外に出向いても技術を磨く必要があった。
 抜群の技術力を持ち真面目な職人であった中島は、さまざまなクライアントに出入りしていた。中でも、当時飛躍的に発注額が伸びていた、厚木にある日産車体には頻繁に出向いており、当時担当だった藤田善三氏(現:河西工業株式会社相談役)には、その仕事ぶりを高く評価されていた。その藤田氏が、1972(昭和47)年4月、日産車体から河西工業へと移ることとなる。中島は、翌1973(昭和48)年、藤田氏の声掛けにより寒川の河西工業に出向き、自動車の内装部品を扱う取引を開始するのであった。これをきっかけに、現在に至るまで極めて重要なパートナーである河西工業との関係が始まった。

 

第3節|業務拡張と工場増築

 河西工業との取引開始により、仕事内容もより多彩でボリュームが増していった。新築したばかりの工場もあっという間に手狭になる。さらに、型も素材や作り方が多岐にわたってきたことから、数種類の型作りに対応するために、1972(昭和47)年から1973(昭和48)年にかけて、西工場、東工場と工場を増築した。
 三郎はこの時期、人事面で大きな決断をする。1977(昭和52)年2月、後に工場長となる古澤正宏を、工場長付き営業職としていすゞ自動車から迎えた。古澤はいすゞ自動車では設計部に在籍し、後に購買部でミッションやエンジン部品などを加工する部品の調達を担当していた。木型屋の事情にも精通しており、三郎ともかねてより面識があった。
 大和木型製作所では、工場長を据えて社員も増やし、大掛かりな仕事に携わるようになっていたものの、まだ家内制手工業の域を出てはいなかった。工場長をはじめ、誰もが現場のたたき上げ。マネジメントはもちろん、必要書類の作成や管理などへの関心が極めて低く、発注企業からはこれからの発展に備えて体制を強化するよう、幾度となく示唆されていた。そこで、業界のことをよく知る古澤をメーカーから招き、企業としての体裁を整えようと考えたのである。三郎のこの決断は、数年後、コンピュータ導入による変革を乗り超える大きな力となって活きたのであった。

 

第4節|業務拡張と工場増築

 1985(昭和60)年、古澤が工場長として着任した年に、大和木型製作所ではモデル加工機NCマシン3軸と、3次元プログラミング装置TAM-BOYを導入した。当時、自動車業界の製造分野ではコンピュータ化が急激に進んでおり、加工機や自動プログラミング装置を持たなければ取引にも影響が出ることが予想された。三郎は、迷わず導入を決断。自動車部品でも大型のフロアやルーフに対応できる規模のNCマシンと、紙テープを記録媒体とするプログラミング装置を導入することで、納期の短縮と大量生産というクライアントの要請に応える道を選択した。当時の金額で2,000万円を超える投資であった。
 初めて導入するNCマシンの担当には、市川良秀と長田智が抜擢された。2人は、浜松のメーカーにおいて1週間泊まり込みで研修を受ける。長田は1978(昭和53)年入社。現在は業務執行役員兼営業部長職にあるが、当時は32歳であった。「すでにマシンが会社に導入されていて、自分たちが覚えていかなければ動かないのですから、とにかく必死でした。1週間毎日、一番前で研修を受けました」
 長田らの奮闘により、NCマシンは無事に稼働。メーカーから「紙テープ」で送られてきた図面データをセットし、NCマシンで加工しモデルを作る。図面データがないものは、自分たちの自動プログラミング装置で入力データを作って、加工機にかける。自動化により、夜中にもマシンを稼働することで生産が可能になった。NCマシンと自動プログラミング装置の導入により、精度や効率、生産性は飛躍的に向上する。図面から手作業で木型を起こしていた時代には1年半かかっていた作業が、半年までに短縮できるようになった。このため、大和木型製作所に頼めば開発期間を大幅に短縮できるとの評判がたち、さらに多くの仕事が舞い込み業務規模が一気に拡大した。先を読み、自動化の流れを理解していた古澤を工場長に抜擢した三郎の大きな決断と投資が好循環を生み、事業の拡大へとつながっていくのであった。

 

第5節|和久田惠子入社、社内IT化の啓蒙と推進

 日本はバブル期の真っ只中。コンピュータの活用と機械加工化を進めた大和木型製作所も、好景気の波に乗り事業を拡大していた。そんな1987(昭和62)年、三郎の長女である和久田惠子が入社する。東京の大学に進学した惠子は、そのまま東京で広告代理店に入社、当時は家業を継ぐという意識はあまりなかったという。しかし、三郎の要請に、悩みながらも富士に戻った惠子は、確かな経営手腕でここまで事業を拡大した父の思いを引き継ぎ、家業の継承という務めを果たすと決意して入社したのであった。
 入ってみると、社内では仕事に関するものは何一つ書類化されていなかった。職人肌で人に教えることが苦手な三郎から、「見て覚える」「自分で考える」という昔ながらのやり方での継承が始まった。営業補佐として中島とともに得意先を回りながら、製造業とは、開発現場とは、大和木型製作所が果たす役割とは、そしてそこで使われる業界用語や特有の慣習など、家業にまつわることを一から学んでいったのである。

 

 一方で、惠子は社内の管理部門におけるIT化を推進。当時マイクロソフトが提供していたマルチプランを総務部に導入し、従来手作業で行っていた給与計算や社会保険等、管理業務の精度の向上と効率化を目指した。だが、その他にも惠子が導入しようとした、ある意味「改革」とも呼べる新しい風は、三郎をはじめ、昔ながらの職人気質の社員ばかりの中ではなかなか理解されにくいものであった。
 世の中全体もまだ、オーナーを中心とした大家族経営的な中小企業が多かった時代であり、良くも悪くも旧態然とした体制が当たり前だったのだ。しかし、時代はものすごいスピードで進んでいた。惠子は次世代の会社の在るべき姿を描きながら、時に謙虚に、時に強気に、そして積極的に社員とコミュニケーションをとり続けることで、徐々に新しいことを受け入れるのに抵抗のない土壌を作り上げていくのである。

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