第2章 発展期 1931(昭和6)年~1948(昭和23)年
第1節|富士市への移転と製紙機械への参入
清水と接する富士市では、江戸時代から三椏(みつまた)を原料とする紙漉きが盛んで、しなやかな紙質の「駿河半紙」は特に人気が高く、江戸に広く流通していた。その後手作業は機械化され、和紙に加えて洋紙の製造技術が輸入されるとともに、豊富な水資源を誇る富士市域では、明治中期より製紙工場が続々と誕生。特に、第一次世界大戦で紙やパルプの輸入が禁止になると、国内の製紙業界は好景気となり、富士市域でも地元の中小資本の製紙会社が多数創業した。その後、昭和初期にかけては出版業界が好調であったことから、製紙業界は業績を伸ばしていた。
第一次世界大戦以降の軍需景気で、船舶主体の木型を製造していた大和製作所 和久田八十松の元に、製紙機械の木型の注文が舞い込んだのもそんな折であった。その後長い取引となる、小林製作所株式会社からの要請であった。和久田八十松は時勢を見つつ、徐々に船舶から製紙用生産機械へと、木型製造の比重を変えていく。そして、1931(昭和6)年、創業の地である清水を離れ、当時、製紙業が盛んであった富士市依田原へと工場を移転したのである。その地は、旧日産自動車吉原工場(2015年現在:ジャトコ株式会社)の前であった。
第2節|幻の二代目就任と株式会社大和製作所の発足
活況を呈する製紙産業の勢いに乗り、依田原時代の大和製作所も事業を大きくしていったものと思われる。八十松には、妻てつとの間に4人の子どもがいた。3人姉妹と長男で、依田原に移ってきた時分、長男の田鶴雄(たづお)は13歳、末娘の芳江(よしえ)はまだ8歳であった。当時44歳と働きざかりであった八十松も、ゆくゆくは息子の田鶴雄に製作所を託そうと考えていたに違いない。
しかし、日本は徐々に戦争へと歩みを進めていく。1941(昭和16)年12月、太平洋戦争の開戦と共に日本は第二次世界大戦に突入。製紙産業は戦争には不要と見なされ、富士の多くの工場が軍需工場へと接収、中小の事業所は休業の憂き目にあう。そのような中で、八十松は1943(昭和18)年8月、大和製作所を株式会社とし、所在地を依田原から今泉へと移した。なぜここで株式会社としたのか、また今泉に移転したのか、その理由を知るものは今はなく定かではない。ただ、この前後に長男田鶴雄が出征していたものと思われ、終戦後のことを考えての算段だったのかもしれない。
頭脳明晰な田鶴雄は、非常に優秀な成績で高等精密工業学校卒業後、日暮里の福浦製作所で働きながら早稲田大学の夜間学部に通っていた。先見の明があり、いち早く車の時代が来ることを察し、高等工業学校卒業と同時に自動車の免許を取得していた。家族や学生時代からの親友である和智三郎(わちさぶろう)に対して、「これからは自動車と英語の時代が来る」と、幾度となく語っていたという。しかし、非情なことに、1944(昭和19)年10月19日、田鶴雄は中国湖南省にてわずか27歳という若さで戦死。八十松は、二代目として期待していたであろう大切な長男を失った。
第3節|和久田三郎 代表取締役就任
1945(昭和20)年、日本は終戦を迎え、その後の復興の歩みが始まる。田鶴雄を亡くした八十松は、田鶴雄の親友で商才のあった和智三郎に、株式会社大和製作所を託する決意をする。自宅にも製作所にもよく出入りしていてお互い気心も知っており、家族にも評判が良かった三郎は、和久田家と養子縁組を行い、1948(昭和23)年、株式会社大和製作所の代表取締役社長に就任。その後、三郎は田鶴雄の妹芳江と結婚。和久田家と大和製作所を引き継ぐこととなった。